Recreate the Universe, Redefine the World

マインドフルネスのその先へ。日本から始まる、あたらしいせかいのつくりかた。

終戦生まれの父と日本と

ちょっと遠い韓国の地から
仲間が伝えてくれた、父の変化
 
子どもの頃から
ほとんど会話をしてこなかった父
寡黙なのが怖かったのか
話しかけるときはいつも
敬語になってしまった
 
話さないお父さん、それが当たり前
同居人のお父さん、
それ以上でもそれ以下でもない
 
終戦より少し前に生まれた
彼の沈黙の中に
どんな涙が詰まっていたのか
考えたことはなかった
 
昨日、父の中に詰まっていた涙が
ようやく溢れることができたみたい
 
それだけでも嬉しいけど
これはまだ始まりなんだと思う
 
循環し始めた心の血液が
これからきっと
彼をどんどん輝かせる
 
戦後の日本と共に生まれ共に育ち
70歳を越えて始まる本当の父の人生に
最大限協力したい
 
戦後の日本が
未来を生きる新しい日本になるとき
これまで日本を作ってきた人たちの中でも
きっと何かが変わる
 
未来の方向へ向かう過去の解析は
その過去の意味も価値もすべて塗り替えて
力強い現在と未来を創る力があるから
 
これからの時代
日本の家族の癒しと再建が始まる
 
生まれ変わった父に会えるのが楽しみだな〜✨
 

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あたらしいせかいのつくりかた

「天才はヒットの理由を説明できない。僕はできる。」
 
「変化」の作り方を研究しているここ数日
様々な気付きがある
 
構造・仕組みをみれること
それを以って「変化」を再現できること
 
突発的な幸運より
盲目的な努力より
やり方や思い方だけの変化より
 
これが大切
 
設計図と道具があって初めて組み立てられる
心から創りたい自分と自分の世界
 
このブログにもある
「あたらしいせかいのつくりかた」
 
誰でも当たり前のように創れる
そんな社会を妄想しつつ
 
研究するのも楽しい
 
 
 
写真は、キャッチボールしたことない人の
へっぽこな投球
 
なにごとも初めは
こんなもんじゃー!!!
 

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戦後71年、新しい戦争のかたち

2016年8月15日終戦記念日

東京で過ごすのは初めてではないけれど
意識したことがなかった終戦記念日

 

同年代(30代前後)の友人ら4人と
靖国神社千鳥ヶ淵戦没者墓苑

 

行く前に検索してたら出てきたNAVERまとめ
実際見た風景もほぼここにレポしてある通り

風景はこうだ
でもあの空気は
足を運んでみないと分からない
 
あの場所に集まった人たちが
それぞれどんな観点で何を思い
靖国神社という象徴的空間にいたのか
 
君が代と黙祷の静けさの中で
 
国とはなにか
日本とはなにか
天皇とは
戦争とは
なにかを問うが
 
まだ整理はついていない
 

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IWJ(Independent Web Journal)の取材を受けた
 
 
戦後71年
日本がまた戦争を始めるんじゃないか
と懸念する声もありますが
どう思いますか
 
 
 
 
 
 
 
 
どう思いますか?
 
 
 
 
 
 
 
 
どんな答えが望まれているのか
そんなことは関係なかった
実現しようとしていることを
ただ言葉にする
 
 
 
武力を持つ諸外国に対し
丸腰で理想上の平和を語るのは
バカげている
 
これまでの歴史の中で理屈を語って
戦争がなくなったことなど一度もない
 
 
 
戦後71年
節目を過ぎた日本は
戦争を始める時だ
 
どんな戦争か
その内容はシンプルに二つ
 
「なぜ人間は争うことをやめられないのか」
その原因の正確な診断
 
そして
 
「戦争できない人間を創る」
これまでの処方に代わる処方の提示と実践
 
 
 
人を殺す戦争から次元を変えて
戦争をなくす「教育戦争」を仕掛ける
 
静の平和ではなく
動の平和を実践し発信していく
 
唯一の被爆国日本の仕事はそれだと思う
 
 
 
 
 

一緒に取材を受けた友人の言葉を借りたらこうだ

「人間に対して銃口を向けることが出来ないほど人間がいかに尊く厳かで美しい尊厳そのものなのかを世界中の人に教育できる

そんな日本になってほしい」

 
 
ただ
取材を受けて1日が経ち
同時に思うことがある

今の日本の中にある
あらゆる観点と
その涙を知らなくては
 
あの靖国で感じた
入り乱れるような観点と思いの渦は
いつまでも理解できそうにない
 
 
 
 
日本という国

この国のことを
もっと知りたい

シン・ゴジラにみる新日本

エヴァンゲリオンの監督としても知られる
庵野秀明さんが脚本と総監督を務める
映画「シン・ゴジラ

 
先日観て
ようやくここにまとめられて
ちょっと落ち着く

そのくらい自分の中で
盛り上がった映画
 
 
感じたことは
 
終わりの見えない
「戦後」という時間の区分にも
終止符が打たれる時がくる
 
ということ

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1954年3月
米国によるビキニ環礁での水爆実験で
日本の漁船、第五福竜丸は被曝する
 
同年11月「ゴジラ」公開

12年間に及ぶ核実験(1946~1958)
そこから着想を得た「ゴジラ」は
水爆実験によって生まれた
正体不明の巨大生物と
人間の対峙を描いている
 
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「現実(日本) vs. 虚構(ゴジラ)」

怪獣映画として観ていては
まったく答えられない疑問
 
 「ゴジラとは何か?」
「日本人は何と戦っているのか?」
 
 

その疑問には
観点の数だけ答えがあると思うけれど
わたしの中で整理がついたのは
 
映画の随所に見え隠れする
世界大戦とその後の世界構造
そして、涙
 
 
 
鬱、自殺、殺人
戦争、核、民族紛争
 
私たちが問題だと思っているものが
誰かが作為的に仕掛けたものだとして
 
あらゆる問題の裏側に立つ
その誰かというのが権力層だとして
 
人類歴史において
下部構造に置かれてきた人間たちが
流してきた血と涙の量は
きっとこの地球を覆う水よりも多い
  
 
 
そして当然、舞台裏を知ったときの
彼らの戸惑いと怒りは
とてつもなく大きいはずで
 
本当はゴジラよりも大きいはずで
 
 
怒れる神、呉爾羅ゴジラ
 
そう、わたしには
全身から放射線を発して
すべてを焼き尽くすゴジラ
 
日本にしか見えなかった
 
 
国土に原爆を二度も落とされて
正気でいられる人間がいるだろうか
 
核という人類の涙を
一身に背負いながら
冷静に、物静かにして
熱くなることをどこか敬遠し
コツコツと働き続ける日本人

そのひとりひとりの中に
表面からは想像もつかないほどの感情が
押さえつけられたまま
眠っていたとしたら?
 
 
この仮定が事実だったときの
現実の日本との違い
 
=恐ろしい量のエネルギー

ストーリーが進むにつれて思う
本当の日本の姿を
日本人も世界も
まだ知らないだけなんじゃないか
 
 
 
主人公のセリフにもあった
ゴジラとの共存」
文字通り受け取るなら
それは核との共存とも言える
 
でもゴジラ
日本の怒りとしてみたとき
 
何とか凍結させようとする
戦後、認識すらされてこなかった
自らの怒りと
 
これからどう向き合って行くのか
どう共存していくのか
どう昇華していくのか
 
それが問われているように思った
 
 
 
劇中に描かれる
米国との関係を見て
改めて思う
 
今の日本に必要なことは
他国から強要された歴史認識
一観点として一旦置いて

世界にとって有益な未来のために
自ら過去を再定義しなおすこと
 
 
 
世界を見渡す前に
対峙すべきものは
この国の中にある
 
この国の歴史の中
私たちの歴史認識の中
 
課題も希望も
自らの中にある
 
 
観ていてどこか
苦しくなることはあったけど
これは絶望の映画ではない
 

映画の前半と後半に
くっきり引かれる境界線

 
今までの日本と
これからの日本
 
これでもかと見せつける
風刺の後の
勇姿
 
絶望の後の
希望
 
チームプレー
ソフトパワーによって
クリアされていく課題
 
 
 
ラストシーンは
鎮魂と平和への祈り
 
破れて目覚めることが許された日本
武力で白黒つける西洋式ではない
この国の戦い方をしよう
 
チームプレーと情とオタクと
古くさくて泥臭い日本式の勝負

その良さはそのままに
もっと賢く、もっとシャープに
磨いていける
 
 
 
思ったんだ
この国はもっと活きる
 
こんな映画がつくられ
多くの人に受け入れられるなら
日本は終わらない
 
戦後以降の新日本

日本の未来をみたい
未来の日本を創りたい
 
 
 
私はやっぱり
この国が好きだ
 

日本という国の記憶、そして、未来

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8月6日と8月9日
必ず出校日だった福岡

今振り返ってみても
子どもにはトラウマになるんじゃないか
そう思えるほどの平和教育の影響か

 

原爆が投下された
その日に限らず 

 

夏はいつも
敗戦のにおいがした

 
入道雲はキノコ雲
 
川で遊ぶ子どもたちも
洗濯物を干す女性たちも

一瞬の後には
蒸発して見えた
 
黒く焦げた影だけを残して
 
もし国を一人の人と見るなら
70年前この国は
どんな精神状態だったんだろうか
 
果たして正気で
いられたのだろうか
 
国内外で激戦を繰り返し
二種類の爆弾を落とされ
戦犯として裁かれ
 
神と崇めた存在は
ただの人だったと知らされて
 
個人、家庭、地域
バラバラなようで
共通する記憶
 
どこを取っても
どれだけ客観的にみても
心が歪むほどのその記憶を
どこかに抱えて
 
わたしやあなたの両親は
両親のそのまた両親は
どんな苦しみを引き継いで
生き残り
 
生き続けてきたのか
 
そんな親たちに育てられた
自分自身はどうなのか?
 
傷が癒えることなく
愛せるわけなどない
 
世界の平和を語る前に
この国の心の平和を

つまり
あの記憶を共有する
一人ひとりの心の平和を
考えたい
 
そして
二度と戦争をしないと決めたなら
戦争の根本原因を明確にし
解決する方法を考えたい
 
戦争の恐怖だけでなく
自他を愛する喜びを伝える教育を
国内外に浸透させること
 
それが世界における
この国の役割ではないかと思う
 
自虐史観が主流となった日本も
自覚する時が来たのではないか
 
新たな未来の方向性を定めるためのツール
それが「過去」の望ましい機能であるとして
 
西洋の2つの異なるイデオロギー
東西から衝突する場に位置し
原爆という壮絶な体験をしたこの国が
 
果たすべき使命を
持たないわけがない

「存在が当たり前」で存在感を感じられるか?

自分と自分以外との関係性。
あまりにも無関心だった気がします。
 
そう思ったきっかけは、英語。英語力を活かして、オリジナルの英語習得メソッド開発を考えていた昨日のことです。
 
ある言語をマスターしているということは、観点によっては武器にもなり、商品にもなる。でも英語が話せるということは、私にとってあまりにも当たり前。当たり前過ぎて、英語を話せることの価値や強みを感じられていないことに、昨日気付きました。
 
あらゆる存在は、無→有。「有るのが当たり前」からスタートしていては、その存在の価値を感じることはできない。家族、友人、空気、宇宙、ネット、電気、福祉・・・なんでもです。
 
そしてその究極は、「存在している」という大前提と言えると思います。存在が当たり前になっていては、存在感を感じられず、生きている実感も持てない。感動もない。
 
5感覚で認識できている世界と、どんな出会い方をするのか。来週から考えていきたいテーマです。
 
そして、英語は!
 
今の時代にとって、これからの社会にとって、日本にとって、自分にとっての「英語」とはなんなのか。思えば英語の歴史も知らずに喋っていたけれど、今後は英語との関係性をもっともっと深めていきたいと思いました。

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写真は多摩川にて。
高架下もアートに🎵

名付けるということ

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昨日、まだ名前を持たないものに名前を付ける、という機会がありました。そこで思ったことをここに残しておきます。
 
例えば、「コップ」は液体を入れるもの、というように、わたしたちは対象に名前を付けることによって、その対象に用途・機能を与え、認識します。
 
本当はなんにでも成り得るものに、あえて名前を付けて、色を付ける。それってなんだか責任重大!特に人のように、育ち変化する存在ともなれば、名付ける=その存在の在り方や、その存在の未来まで決めるようなもの。
 
ならば良い名前を!!!と思い、思いつくイメージをあらゆる言語で調べて。意味はいいけど、響きがイマイチとか、本当にこんな意味を持たせていいの?と自分を疑ってみたり。
 
でも考えても考えても、いいものが出てこない!
そんなもやもやとしていたときに、ふと思いました。
 
名前のつけられない大自由のままでは、なにものにもなれない。
名付けるというのは、大自由に意志と希望を吹き込み、形を持たせること。
その存在の未来に責任を持つ、その関係性にコミットする決断をするということ。
 
面白いもので、そんなイメージに切り替わったときに、「これだ!」という名前が降ってきました。

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この宇宙の中のあらゆる名前に、そんな意志と決断が込められているんだろうな。
 
わたしが名付けた名もなき魂の幸せに、わたしも責任を持ちます。
出会えたこと、関われることに、感謝です。