Recreate the Universe, Redefine the World

あたらしいせかいのつくりかた。

日本人が「脱カタカナ英語」ができない理由

前回の英語ブログをfacebookにシェアしたところ、前代未聞の反響にビビって、続きがさっぱり書けなくなったわたしである。まわりからはそう見えないらしいが、極度のビビりのため、人に読まれている、見られていると思うと筆がピタッと止まる。

とはいえ書きたいことはあるわけで、しかも自分が書いていることに対して全人類から賛同を得られることはないわけで、そもそもなんのために書いてんの、という原点に立ち返ると、やっぱ書きたいよね、と再び筆が進むのである。

というわけで、今回は英語の発音についてシェアしたい。

そう、発音。前回、「英語はシンプルだ」という意味を説明してくって書いてたじゃん、と思った方。するどい。興味がどんどん逸れていく、「みっこあるある」に引き続きお付き合い願いたい。

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⬆️大学のクラスの課題図書を読んでいるところ

⬛︎発音が下手ってなんだろう

まず、そもそも日本人は発音が下手なのか、ということ自体について言及する。これは下手というよりは、「アクセントがあるよね」程度に捉えることをお勧めしたい。

外来語のカタカナ表記の功罪と言おうか、カタカナで表記された通りの読み方が浸透してしまった日本人のスピーキングは、ネイティブのそれとは異なった発音になってしまうことが多いように思う。

だが「英語」と一括りにしても、アメリカ、イギリス、カナダ、オーストリアetc.とそもそも国によって違うし、話者の母国語の数だけクセが存在するのは当たり前の話で、「日本人は英語があぁっ!喋れなぁぬぁっ!カタカナ英語ぅぁっ!」と変に小さくなる必要はない。発音ができなくても世界は終わらないので、ぜひご安心いただきたい。

 

⬛︎「お前なんで聞き取れねんだよ」

英語習得の道のりにおいて、この「まぁ発音下手でも死なねーし」の精神は非常に重要だ。

わたしは大学時代NYに住んでいたが、ここで軽くショックだったことがある。それは、NYではアナウンサーが話すような正統派の英語など存在するわけでもなく(アナウンサーですらクセがある場合も)、中国系、インド系、ラテン系、イタリア系など、多種多様なアクセントが共存していたということ。

これは特定の地域に限らず、電話でも言える話だったりする。インド系の電話オペレーターに当たろうものなら、「うぉー、まじかー」と泣きたくなった。まったく聞き取れないのだ。何度も何度も聞き返す。聞き返すたびに申し訳なくなり、心が苦しくなっていくジャパニーズなわたしが顔を出す。

しかし彼らは挫けない。そもそもそんな概念ない(ようにみえた)。「なんでお前聞き取れねんだよ」が基本スタンスだったりすることも。ときに理不尽だけど憎めない(イラッとするときはある)、なんともたくましい心のあり方。これがアメリカ国家を繁栄の道に押し上げてきた、移民とその子孫たちのパワーであり魅力だ。

帰る国がある生っちょろいモヤシのごとき自分からすれば、超リスペクトな存在である。

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⬆️移民たちが形成するNYC(newyorknatives.comより)

というわけでまたまた前置きが長くなったが(前置きを書いていたのだと、今自分でも気付いた)、大前提として「発音はそんなにだいじじゃない」と思っていただきたい。言い換えると、「発音ひとつに小さくなるのはやめちゃおう」ということ。

スピーキングはトライ&エラーの中でしか磨かれないものなので、まずはお互いにガンガン喋って間違えまくって、最後に「なんでお前聞き取れねんだよーうこんにゃろーう」とまで言っちゃうような、そんな面倒くさい人たちになってしまうくらいがちょうどいい。

相手を思いやる心やマナーを考えることは、まずはスピーキングに慣れてから。確実な変化を作っていくには階段作りが大切だ。

 

とは言っても、「英語の発音」という新しい世界と出会う、この絶好の機会を逃さない手はない。脳はもとより、日本語の発音しかしてこなかった「口」にとっては革命的な体験になるだろう。

日本語とはまったく違う発音の仕方を習得するということは、演歌しか歌わなかった人がラップを歌えるようになるくらい、新しい世界を開いてくれるはずだ(⚠️あくまでイメージです)。

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⬆️大学のクラスの課題図書を読んでてうんざりしてるところ

というわけで、次回は「カタカナ英語になってしまう一番の理由とは?」というテーマで書きたい!この記事のタイトルそのもの!ぶれる可能性もあるが、さすがにこれは書きたい!なぜなら自分でも納得いく説明を思いついたからである…ふふん。

乞うご期待。

I Can't Speak English症候群の治療法

実はいま、プンプンしながらこのブログを書いている。

こちらが英語を話せると知った途端に「英語教えて〜」と言ってきて、しかし実際は行動を起こさない、そんな「したいしたい詐欺」の輩を思い浮かべていたからだ。

「したいしたい詐欺」の人々は、人生全般的に「あーしたい、こーしたい」とは思っていてもアクションを起こすまでには至らないため、現実力のない人が多い(みっこ比)。

そんな人に限って、本気でもない、覚悟もない割に、人の時間を使いたがる。教えてもらいたがる。血のにじむような努力をして英語を習得したわたしからすれば、非常に腹立たしい。

というわけで、「英語教えて」という言葉をかけてくる人々に対してわたしが返す言葉はこうだ。「そのセリフを吐いてる時点で無理だよ。本当にやる気になったら声かけてね。」

ちなみにそんな人を思い出してプンプンするのはわたしの認識の問題だが、それに対してどうこうする気は今はない。プンプンしたままにしておく。このくらいがわたしとしてもやる気が出てちょうど良い。

ちょうどいいことに、写真もプンプンしている。

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ということで、前置きが長くなった。本題はここから。

前回、新しい言語を学ぶメリットについて書いたところで、次は「英語はシンプルである」というわたしの個人的な意見を数回に分けてシェアしたいと思う。

英語はシンプル。そう、本当は「英語は簡単だ」とまで言ってしまいたい。「英語は難しい、英語は話せない」という日本人の謎のメンタルブロック "I Can't Speak English症候群" を治療したいからだ。

なので今回は、主にメンタルブロックについて整理してみる。「英語はシンプル」だというトピックについて書くとついさっき言っておきながら。巧妙な話題のすり替え。そう、気が変わったのだ。

…みっこあるあるである。

 

①メンタルブロックの出来上がり方

たしかに英語はその構造上、日本語と対極に分類される言語ではある。語順やアルファベット、発音、時制の表し方など、日本語とは大きく異なる。学生たちからすればまったくもって未知との遭遇なわけで、にもかかわらずその遭遇がまるで当たり前かのように強要される。そして点数をつけられる。苦手意識を蓄積するのも当然の話だ。

そこにさらに、間違えるのは恥ずかしいことだとか、なぜか99点を0点まで繰り下げてしまう思考とか、チャレンジが怖いとか、西洋に対する劣等感だとか、あらゆる日本という島国ならではの思考グセがヒネリを加えてくる。

この日本特有の価値観や学ぶ時の姿勢態度というのが、言語習得、もしくは新しい世界に出会う際に、一番の鎖になって人を不自由にするとわたしは考えている。わたしも海外に出たときには、このポイントを突破するのが一番難しく苦しかった。でも突破してみて理解したことは、自分が自分に制限の重りをつけてたんだということ。

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②メンタルブロックの解除法

というわけで事実は、「難しい英語が存在する」のではなく、「英語を難しいと認識する意識があるから、難しい英語が存在する」だけだ。この英語という【対象】をどう認識するのかがキー。

そしてなにより、認識する【主体】である自分が、自分自身をどう規定しているのか、これを知らなければ英語学習どころか、人生なにをやってもうまくいくわけがない。

例えば、「こんなことできない自分」「自由にしちゃダメな自分」というように、誰しもオリジナルの思い込みの偽物アイデンティティを持っている。これを明確にしてほどいていかない限りは、根本的な変化を作ることは不可能に近い。

冒頭の「したいしたい詐欺」の人たちにも必ずこの自己イメージがある。おそらく、子どもの頃からまわりの大人に褒められることなく、かといって努力しなければ怒られる。だから「やりたい」と口では言うが、根底には「どうせ達成なんてできない自分」という自己イメージとたくさんの涙を蓄積している。とかとか。

そんな涙を思えば、不動明王弥勒菩薩に変わる。アルカイックスマイル。ここまで書けば冒頭のプンプンは消えている。

かなり話がずれた感があるが、この【主体】と【対象】の2つのポイントをつかんで、仕組みにそってアクションできれば、英語に限らず、人生うまくいかなくさせているあらゆる思い込みのメンタルブロックは解除できる。根気がいるだけで、特段難しい話ではない。

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英語の場合であれば、「英語と日本語はまったく違う言語」というその事実をまず前提に据えて、英語とはどんな性質を持った言語なのか、そして英語という道具を使いこなせるようになることで、どんなメリットがあるのかを知ることが大切だ。

そうやって、これまで作られてきた色眼鏡を捨てて、きちんと英語と出会うことで、「ああ、英語ってそういうものなのね」と【理解】することができ、学ぶか学ばないのか、能動的な【選択】ができる(学校ではそれができないことが残念)。

そこまでくれば、あとは簡単。自ら選択するからやる気が出る。工夫もするし、夢中になれる。

ちなみに次回詳しく書こうと思っているが、正直、英語はおどろくほどシンプルな言語だ。特定のフレームがあり、そのフレーム通りに単語を並べるだけでいい。しかもそのフレームの基本的な型は5パターンしかない。

個人的なイメージで言えば、レゴブロックで音楽を奏でているような感覚だ。レゴブロック(単語)を組み合わせる順番があって(語順・文法)、ときにフラグを立てながら(時制)、緩急つけてひとつの作品を演奏する(スピーキング、ライティング)。

こう表現すると、なんだかワクワクしてこないだろうか?言語というのは至上の遊び道具だとわたしは思う。言葉は、自由に選び、自由に発することができる。自分の中にあるイメージが表現でき、それを人と共有することまでできてしまう。

言語は人間が開発した最高の道具だと言われるのも頷ける。

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③なぜ「英語」なのか

わたしは別に英語を教えたいとはこれっぽっちも思っていない。英語はあくまで身近にあった、そしてシンプルで使い勝手のいい道具に過ぎない。

なんのための道具?

人に、自分の無限の可能性を思い出してもらうための道具。前回も書いた通り、英語という道具があなたをコネクトしてくれる世界は広大だ。世界には、あらゆる価値観と情報で溢れていて、その無限に見える大海につづく扉は、「言語」というたったひとつの鍵で開いてしまう。

そしてなにより、英語習得を通して、自分の認識と向き合うことができる。自分をがんじがらめにしてきた鎖に気付き、そこから自由になることができる。

そんな道具を使ってわたしが伝えたいメッセージは、シンプル。

英語と出会い直しをしよう。
世界と出会い直しをしよう。
そして制限のないあなたを抱きしめよう。


心の底からさけび、歌い、泣き、笑い、出会う。
世界はそこから変わり始める。

というわけで、「英語塾」絶賛企画中!まったく新しい自分と世界に出会う、その一助になれれば幸いに思う。

英語を学ぶことのメリット

わたしは英語を話せるほうだが(NYの大学で歴史学を専攻)、誰もが英語を話せるようになったほうがいい、とは思わない。ただ、話せるようになったときのメリット=世界がいかに拡がっていくのかは、誰もが知っておくといいなとは思う。

英語が話せるようになったことで、どんなメリットがあるか?少し考えてみてほしい。どのくらい思いつくだろうか?

学校で外国語を教えるときも、すべてのメリットを伝えた上で「あなたは第二外国語を学びますか?学びたかったらどうぞ〜」という選択肢を与えるのがベストだと思う。

最近では日本も多言語圏のヨーロッパにならい、「英語習得によってなにが可能になるか」を考えさせるような取り組みが進んでいるらしいが、アラサーのわたしの世代まではけっこう残念な英語教育のイメージが強烈だ。

突然始まる英語の授業。日常生活で使うわけでもないのに、なんで英語勉強せないかんのじゃ、と思った人も少なくないと思う。「やりたくないことやらなきゃいけない→勉強つまんない→成績よくない→英語苦手→I can't speak Englishを自信もって言えちゃう日本人」のサイクルが出来上がる(これを言い出せばすべての教科において同じことが言えてしまうのだけど笑)。

みなさんはどうだっただろうか。

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「英語を学ぶことのメリット」とググってみると、いろんなメリットが挙げられていた。ビジネスや留学で必要、交友関係が増える、旅が何倍も楽しめる、などが王道だが、特に多かったのは「得られる情報の量」が劇的に変化することだ。

これはわたしも大きく頷くポイントであり、案外思いつかない点でもあるらしい、と最近気付いた。

ネット上にある情報のうちに、日本語で書かれたものは3〜5%程度。一方、英語の場合だと55%〜80%というデータもある。ちなみに以下の参考記事に挙げられていたメリットは5つ。

⑴得られる情報の幅が劇的に広がる
⑵仕事で頼られることが増える
⑶友達が増えて交流関係が広がる
⑷洋画を字幕なしで観て泣ける
⑸自信がつく

実際わたしも何かを検索するときには、日本語と英語の両方で情報収集することも少なくない。英語だと同じワードであってもヒット件数は驚くほど違う。ぜひ同じ意味の単語を、日本語と英語でググってそのヒット件数を比較してみてほしい。

わたしの脳内での「日本語の情報」のイメージは、大きな海(この大半が英語の海)の中の、すみっこの小島くらいの割合なので、基本あてにしていない。

さらにこのネットでの言語という視点でみた場合、ビジネス的なメリットや独自性、創造性、そしてなにより、情報の量だけでなく情報の質というのは、切っても切り離せない。

「日本語のWebサイトの質は、英語のWebサイトに比べて全体的に低質だ。また、多様性を欠いており、似たようなサイトばかりだ。なぜなら、日本のWeb市場には「日本語」という、海外からの参入をほぼ全て断ち切る強力なフィルターがあり、競争がそれほど激しくないからだ。」

海外から入ってくる情報には基本フィルターがかかっている。そしてフィルターを通過する際にはタイムラグが発生するため、日本は東京といえど世界に比べて情報が遅れているのが常だ。

これを知らずして自分の得る情報がすべてだと思い込んでしまうと、極端に狭い世界に自分の身を置くことになってしまう。ネット上の4%の世界だ。英語と比較すれば、それはあまりにも狭い。

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これはなにもネット上の話だけではなく、常に起きている現象だと言えてしまうのが怖いところ。自分が育った環境、住む場所、出会ってきた人、あたかもそれらがすべての情報源のように思い、その中からさらに限定的な情報を拾い上げ、「自分」という存在や価値観を形作っていくのが人間だ。

ネット空間も意識空間も物質空間もまったく同じで、海はどこまでも広がっているが、人間の脳は無限を認識できない。そうやって自分の可能性を限定して生きていく。見方によってはかなり不自由な生き方になる。

英語を通してわたしが伝えたいのは、この「可能性」のことなのかも知れないと、ここまで書いてみて思う。たくさんの人に知っておいてほしいこと。それは、自分を形成する情報がすべてではないということ。本来のあなたは、どんな存在にもなれるということ。

日本語の海で生きてきた自分から一歩距離をおいて、英語という言語を通して、新しい世界、新しい自分を開拓していく面白さを体験してほしい。アイデンティティが変化してしまう、その革命的な変化に出会ってほしい。

ということで、他にはなさそうな「英語習得×自分変革」のプログラムを考案中!徐々に詳細をシェアしていきたい。

誰もが自分の宇宙の革命家になる世界に。
Reborn to be a revolutionary!

 

Mikiko

HSPということ⑵

1,300文字くらいだろうか、姉のことも書いたし、自分のことも書いた。でもそこまで書いて、消した。

前のブログを書いてから2週間が経ち、あっという間に「もう、どうでもいい。」と思うようになった。というと少し乱暴なので、もうちょっと正確に表現すると、「それは、もういい。」という感じだろうか。ん?あんまり変わらない。笑

たしかに、できないことはたくさんある。不器用で、人が簡単にできることができない。どこかちょっとはみ出るような自分。

でも結局自分をしばるのは、「自分をどう思うか」、その自己認識のみだ。

例えばわたしの自己認識。HSPという事実は変わらないが、そこにマルやバツをつける自分がいた。「HSPのわたし」だけで終わらず、「そんな自分はダメなんだ」という烙印を押し続けてきた。

考えただけで、一人では生きていけない恐怖が瞬時に襲ってきた。一生誰かの手が必要な自分。一生介護される自分。極端すぎる表現ではない。生死がかかっている、そのくらいの切迫感が背後から追ってくるようだった。

ダメな自分だと思えば、ダメな自分が存在する。

そうやってアイデンティティが固定され、エネルギーを生み、自分の中でイメージが蓄積され、考え、感情、それらが外に反転して、言葉、表情、行動、人間関係まで形作ってしまう。

そして確認するのは、「やっぱりダメな自分」というアイデンティティ。思考が現実化していく世界。本人は本気で悩むストーリーだが、実際には一人劇のようなものだ。

ダメな自分など本来存在しない。いや、存在する、と言っても、「いつ?誰が?なぜ?」と問いを深めていけば、根本には相対的な判断基準がフィルターとしてかかっているのが分かる。

存在するから認識するのではなく、認識するから存在する。物理宇宙も意識宇宙も、すべてその法則に従って立ち上がっていく。

良くも悪くも、自分が宇宙の創造主。

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だからこそ、ここで足を止めて自分に問うことだ。「どんな自分になって、なにを成したいか?」そして徹底的に、自分の認識と向き合うことだ。

あなたは今、自分のことをどう思っているだろうか?どんな決めつけをしているだろうか?即答できないのであれば、時間をとってぜひ考えてみてほしい。自分の心と対話してみてほしい。できることなら世間の色眼鏡を外して。

そこで答えが出ても出なくても、人間一人ひとりが宇宙をどのように立ち上げているのか、その仕組みを明確に理解することさえできれば、知らず知らずのうちに自分で作ってしまった檻から出ることが可能になる。選択肢を持つことができる。

この選択肢を誰もが持てるようにしたのが、認識技術の創始者のNoh Jesuだ。

細かい話は今後書いていくとして、今は彼のある言葉を共有したい。自分を固定してみるクセが出てしまうときに思い出す。

 

「弱いふりをしてるんじゃないよ。」
「自分の尊厳は自分で守るんだよ。」

 

これらの言葉の裏にはとてつもなく深い意味が込められているが、どう考え方を変えたとしても、生きにくさに変わりはないかも知れない。なぜなら現代の社会が人類75億一人ひとりの個性に対応できるような形態をとってはいないからだ。

苔の生えたような伝統、体制、価値観もある。どこで誰が作ったかも分からないモノサシで叩かれるように測られる。

でもそんなモノサシから自由になるための智慧と覚悟、そしてモノサシ自体を更新させていく勇気と仲間を、あなたが持てるとしたらどうだろうか。

既存の常識を鵜呑みにして生きるのではなく、そうやって自ら基準を打ち立てて生きる、その力を発揮していくこと。「自分の尊厳を守る」とはそういうことだと思う。

もしこれを読むあなたが「自分なんて」と、自分という存在に何かしらのレッテルを貼り、またそれを苦しいと感じているなら、思い出してほしい。

あなたはトラだ。それはあなたの魂が一番よく知っている。あなたはまっすぐ、裸の心でしか生きられない。もう諦めたくなるくらいに苦しいのは、腹の底では常にやり切りたい、生き切りたいから。

海ではなく山で生きよう。あなたが戦うべき場所、生きる場所に行き、すべてを燃やして生きてほしい。わたしもそうする。

これからはそんなメッセージを発信していきたい。すべての人が自分の宇宙の革命家になる日を目指して。
  
Recreate the universe. Redefine the world.

And reborn to be a revolutionary.

 

Mikiko

HSPということ⑴

最近、発達障害HSP(Highly Sensitive Person)という言葉を目にする機会がおおい。5月にはNHKが生放送で特集もしていた。詳しいことは知らないが、発達障害というトピックで生放送、視聴者とインタラクティブに進行していくなど、チャレンジングな試みだったと思う。

自分のことを【HSP】としてラベリングするのは抵抗があるが、自分をHSPのチェックリストと重ねた時、説明できることが多すぎて受け入れざるをえない。

長い時間を一緒にすごす友人から、「これあなただよ!」と言われて知ったのがHSPだ。最初は半信半疑で、HSPに関する本をぱらぱらとめくりながら「ふーん、こんなのあるんだね」くらいで、完全なる他人ごと。

でも、自分の行動パターンや悩んでいた性格をあらためて意識して生活するうちに、考えが変わった。「自分はあまえた人間なんだ」「自分は人とは違うんだ」と子どもの頃から思ってきた自分の特徴のすべてが、HSPのチェックリストにあった。

 

思いもよらないところに落ちていたピースが、ずっと不恰好だと思っていた絵に、パシッとはまったような感覚。

完成図というゴールはそもそもないが、偏りのない目線で絵と向き合い、全体像が見えるようになった気がしている。

 

思わずつぶやいてしまいそうだ。

「はじめまして、わたし。」

 

子どもの頃から、妙な「生きにくさ」は多くあった。
自分の中の整理も兼ねて、いくつか事例を挙げてみようと思う。

 

◎空腹や眠気、疲れ=コントロール不能 \(^o^)/

空腹や眠気には極端に反応し、文字通り「どうしようもなく耐えられない」感覚に襲われる。理性も吹っ飛ぶので、コントロールが不可能だ。とにかく機嫌が悪くなり、口をきかなくなる、ぐずる、悲観的になるなどしてしまう。

子どもの頃からそんな調子だったので、当然親には辟易された。「自分はわがままで甘ったれなんだ」という刷り込みは、なにも自分が四人兄弟の末っ子として育ったからというだけではないらしい。

口をきかなくなるなどの反応は大人になった今でも変わらないが、HSPのことを知って以来、予兆があればすぐに足を止めて、何かを食べるようにしている。そういうときは、電車の中だろうと道を歩きながらだろうと、まわりの目はあまり気にしない。

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◎人と話す=基本パニック\(^o^)/

人と会うことが極端に苦手で、話すときに軽いパニックになることは日常茶飯事(ただ、相手には見せないように振る舞う)。気軽に人に「おはよう」と声がかけられるようになったのは20歳を越えてからだった。

相手がなにを言おうとしているのか?この会話の意味はなんなのか?とにかく細かい背景が気になって仕方がなく、なんの意味もない雑談はわたしにとって難解なコミュニケーションでしかない。とにかく、つかれる。その一語につきる。

最近は、なんともない会話こそが関係性の潤滑油なんだと理解して、実行してみている。慣れてきて比較的楽に「どうでもいい話」ができるようになってくると、小さなことで笑うのも案外楽しいものだと思えるようになった。

最近は無駄口もふえて、自分の言ったことでまわりの人が笑顔になるのは、純粋にうれしい。

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◎ぼやけていく音の境界線\(^o^)/

人が多い場所では、声や音が混じってすべて同時に聞こえてしまい、話し相手の声が聴こえなくなるという現象が起こる(NHKの特集は、当事者の証言をもとにその世界を再現しており、それがまたとても共感できるものだった)。

なので、大人数のグループだと話についていけなくなる。なぜみんなが笑っているのかが分からないので、集団の中では孤独を感じることが多かった。

近頃は大人数のセミナーなどに参加することもよくあるが、頑張って輪に入ろうとせず、ひとりでゆっくり休むなどの工夫ができるようになった。ワイワイ一緒に話しているから仲間、付き合いが悪いと人が離れる、なんて表面的な関係性は一切なく、思い・意志・ビジョンでつながる仲間に囲まれ、安心してひとりになることも、輪に入ることも選べるようになった。

◎いつも一所懸命\(^o^)/

わたしからすれば境界線が曖昧になって「背景音とブレンドしてしまった声」も、一般的な感覚からすれば普通のボリューム。相手にわざわざ「大きな声で話して」とは言えずに一所懸命に話を聞く。涼しい顔をしている(つもりだ)が、心の眉間にはがっつりシワがよっている。笑

聞くだけでなく話すときでさえ、自動的に自分の声を大きくするので、会話をするだけで疲弊してしまう。

長いこと、自分は耳が悪いんだろうと思って生きてきた。でもここ数ヶ月ほどでわかったのは、実は逆で、どうやら聴覚が敏感すぎることが原因だということだった。

街の騒音、LINE通話(背景音が急に大きく聴こえたりするため)などは、うるさいというレベルではなく、神経がまいってしまうくらいにつらい。音に関しては、東京に住みながら、しかもオフィスが渋谷という環境なので、1日の設計図、体調管理、人に会うタイミングや空いた時間をどんな場所で過ごすのかなど、まだまだ工夫の余地あり。

なにはともあれ、原因が分かれば対処ができるので、かなり楽になったことは確かだし、工夫はいつだってたのしい。

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事例の中にはちょっとした変わりダネもある。自分でも説明ができなかったのは、時間、空間、存在のとらえ方で、これはとにかく言語化がむずかしい領域だ。

現実がゲームの画面のようにみえて、そこに自分が参加しているという当事者意識がうすい。そのためか現実を創ることに関しては積極性があまりなく、お金や仕事など粒子的なものに対する執着があまりもてない。

時間というつかみどころのない概念はどう理解したらいいんだろう。空間ってなんなんだろう。みんな存在をみて不思議に思わないんだろうか?ここにあるように見えて、手をのばしたらさわれるけれど、これは一体なんなんだろう?と。

どうやら、思わない人が大半らしい。笑
なので、考えなくなった。

この点に関しては、そういった森羅万象を科学的にも哲学的にも整理しちゃう教育コンテンツに3年ほど前に出会うことができた。出会ってなければ死んでいたかもしれない。笑

現在は教育革命による、教育、経済、政治、文化芸術の全方位から世界のパラダイムシフトを起こすべく、その会社の共同経営者として海外展開プロジェクトに参画している。

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他にも、短期間に複数のことをこなそうとするとパニックになる、仕事はミリ単位でこだわり、力を入れなくていいところでもプロ並みの仕上がりにこだわるなど、事例はさまざまある。

だが、こういった自分の特徴を裏付けするものがHSPだろうが知覚過敏だろうが発達障害だろうが、名前はなんでもいい。

自分を通して問題だと思うのは、脳の動きが平均的なそれとはすこし違い、外界の刺激に敏感に反応してしまう特性ゆえに、社会から、まわりから、自分から押されたstigma(烙印)だ。

おそらくこれが、一番苦しい。そして周囲からの理解を必要とするところだ。

 

かなり長くなってきたので、このstigmaに関してはまた次回に。
最後まで読んでくださった方、ありがとうございます。

 

ちなみに写真は適当に、今まで撮ってきたもの。

【製作者の意図はガン無視レビュー】「メッセージ」〜観てから20分くらい、喋れなくなった映画〜

過去・現在・未来が重なったとしても
抗うことのできない因果の輪

そこでは自由意志ではなく
決定論が勝利する

時空間すら生み出す
究極の根源までたどり着けなければ

人間が因果の「殻」の中に閉ざされて
自由になることは決してない

その無意識深い絶望を
微かに残して幕は降りる

東洋の先覚者たちが
残していった課題が今ここにある

そんなことを感じる内容でした。

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邦題は「メッセージ」、原題は「Arrival」。
サピア=ウォーフの仮説」を取り込んだ、大変興味深い作品です。

原著は「あなたの人生の物語」というSF短編小説で、著者は中国系アメリカ人のテッド・チャン

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サピア=ウォーフの仮説
使用する言語が使用者の世界認識に影響を与える。

自分自身、英語という言語を通して思い当たる節が多く、言語によって世界認識を意図的に変化させるプログラムの開発を考えているわたしとしては、理解を深めたい分野でもあります。

ちなみに、わたしがここに書くことは、専門知識0なわたしが書く完全なメモ代わりなので、ネタバレするほどの内容でもなく、「製作者の意図はガン無視レビュー」です。

突っ込みどころは多いかと思いますが、こんな受け取り方もあるんだなぁ、という広い心で読んでいただけたら嬉しいです。

 

さて。

 

世界認識への影響、例えば時空認識。

時間は一般的には、過去から未来へ、単線的に流れるものです。現在は過去になり、未来へと進んで行く。

言語も似たようなもので、時制(動詞の変化で時を表す)を持っているものが多く、そうでなくても時を表す名詞(昨日、さっき、etc.)は必ずどの言語にも存在します。

また、言葉は連続的に発され、生まれては消えていく。一語一語、逐次意味を重ね、つなぎ合わせ、前へ前へ進み続けるのが時間であり言語、という共通点もあるかなと思います。

 

ただ、「文字」をとってみたときに、漢字のような表語文字表意文字というものはとても面白い。単語を連ねて意味を理解するのではなく、形が意味する複数の情報を同時認識することによって理解する。時間の概念に当てはめると、過去・現在・未来が重畳する構造というイメージです。

発したときには時間が生まれてしまうのに、文字として描かれたときには、その文字の中には時間から自由になった宇宙が広がる。その宇宙は、一直線に進む時間の概念、つまりわたしたちが脳で認識する物理的宇宙空間内における、表層的なルールを越えていく。

さらに文字すら越えた世界に踏み込むとすれば、仏教の「不立文字」(ざっくり言うと、真理は言葉・文字で伝達することは不可能、という教義)が思い浮かびます。

言語という伝達方式の限界を越えていく教育の開発が本業であるわたしとしては、この辺のお話が大好物、、、とはいえちょっと深くなりすぎるので、ここでは一旦割愛。



線形的な因果律ではなく、円環が折り重なる重層構造の世界観。

わたしたちの存在という概念や世界観を根底から揺らがせるように、時間概念を映像化し、東洋と西洋の境界線を越えていこうとするような映画でした(越えきれなかった感はものすごくあるけど)。
 
 
音楽や全体的な重さ・不気味さは個人的に好み。SFだけどSFらしくない仕上がりだし、興味ある方はぜひ!

P.S. 言語の限界を感じてしまうと、簡単に言葉を発せられなくなるのか、映画を観てからいっときは喋る気がしなくなりました。

AI時代に必要な教育とはどんなものか

昨日、タイでも著名な教育家であるWichian Chaiyabang氏とお食事の機会をいただきました。わたしは英語の通訳として参加。韓国ネイティブ(NR Group代表Noh Jesu氏)の話す日本語と、タイ人の話す英語の橋渡し役でしたが、拙い会話の中に深い情熱が響き合う、最高の時間となりました。会食時の写真がないのが残念!

f:id:mikikoumeda:20170531101854j:plainChaiyabang氏の学校、Lamplaimat Pattana Schoolより

Chaiyabang氏はタイの教育界で知らない人はいないほどの教育革命家。タイ国内の教育格差や公立教育の質の改善のため、15年という歳月をかけてオリジナルのメソッドを開発・実践しており、現在タイで300校の学校を持つまでとなっているそうです。

 

True wisdom、真の知恵を誰もが持てる教育を目指す彼なので、本質的な内容であればあるほど会話も盛り上がります。そんな彼の教育法で、大切にしている3本の柱を教えていただきました。

⑴宇宙のすべてとつながった自分として内面の成長を促す。
⑵実践を通して問題解決能力とチームプレー能力を養う。
⑶教師間のエネルギーレベルでの交流とwisdom(知恵)の共有を行う。

 

あまり細かいお話を聞けたわけではないですが、「個」ではなく「すべてはひとつ」という世界の根源から始まる教育、という印象でした。しかもこれが国も公認する教育というのが驚きであり、同時に、彼の地道な活動の賜物なのだと感銘を受けました。

「家族一人につきTV一台」に象徴されるような究極に分離した世界から、IoTですべてがコネクトするこれからの時代。西洋の二分法思考の台頭によって「時代遅れ」となった東洋の悟りが旧い服を脱ぎ去り、息を吹き返すタイミングであるように思います。

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そして会食についても、ひとつ。

悟りの概念が共通土台となっているコミュニケーションというのは圧倒的で、そんな場においては表層的な知識や笑いは一切不要であるということを目の当たりにしました。

「AIが可能にする悟りの境地」「人間のディープラーニング」「現実を脳が映し出す立体スクリーンとして認識すること」「世界の根源」「人間の尊厳」etc.

こういったキーワードが出てくる度に、目を輝かかせ、大きくうなずき、「それなんだよ!」と指を鳴らす。国を越え、人種を越え、言葉すら越えた意志と意志の出会い、ビジョンでつながる同盟とはこういうものかと、心が喜ぶようでした。

AIが暗記や知識、情報処理を担う中で、人間一人ひとりは自分の可能性を花開かせることに注力できるステージに人類は突入しています。そこでは軍事同盟や経済同盟ではなく、教育同盟を組める国、組織、集団が生産力・収益力を極大化し、世界を牽引するリーダーシップを発揮するんでしょう。

 

そこで改めて、日本でわたしたちに馴染みのある詰め込み教育だけでなく、世界にある色んな教育法に目を向けてみたいと思います。数ヶ月前にブックマークしていた記事を引っ張り出してきました⬇️

モンテッソーリ、シュタイナー、サドベリーetc.、オルタナティブとは言え、こういった多種多様な教育が世界に広がっていきました。その教育体系のひとつひとつに、「人間の無限の可能性」にかける開発者の意志が宿っているのだと思います。

認識技術という技術を活用した教育も、1996年に産声をあげ、21年かけたプロジェクトの節目を今、迎えようとしています。5月31日の今日は大晦日、6月1日の明日はお正月のようなものです。

この節目を新たなスタートラインに据えて、さらなる世界展開を目指します。